ガワラジオ

個人的な出来事の整理用。

レイコ

10月後半。今年の秋はかなり短かったように思うほど、突如として寒さが訪れた。コロナ騒ぎが落ち着いたので、もはや義務となった有給を消化すべく地元に帰ることにした。

 

実家を出て10年になる。家族4人で集まることがこんなにも減ることを、10年前の自分は想像していただろうか。(記憶が間違っていなければ、18歳の僕は家を出たくて仕方がなかったようだが。)

 

親が自分を産んだ年齢に近づく程に、家族というものを意識する様になった。なんら事前説明もなく産み落とされ、育ち、大海にでた僕たちは、生まれた川に遡上する鮭のように、その伏線を回収していくのだろう。大海は時に死をもたらすほど危険だがその水は止めどなく移ろう。穏やかな小川は安らかなるも時に淀む。ユートピアは ーーーーーーー

 

祖父が遂にボケた、と母親が言った。ボケた祖父の面倒を見るために叔父が単身祖父の家に住むことになったらしい。「でも実はそれは口実で」母親が続けた。叔父はどうやら離婚するらしい。

 

そういえば、叔父の妻は僕が高校を卒業したあたりから会っていない。盆と年始に父方の3兄弟家族で祖父の家に集まることが通例となっていたのに、叔母はいつの日からか顔を出さなくなっていた。聞けば10年ほど関係が良くなかったらしい。

 

父が久しぶりにあった叔母は沢山のピアスをあけ、10年前の姿からはまるっきり変わってしまったとのこと。叔母の四番目の娘はリストカットを繰り返していて、これ以上精神負担をかけ無いよう、暫く離婚は思いとどまるよう父が説得し、単身祖父の家に住む結論に至ったと、母親は続けた。

 

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翌日僕は中学の同級生とキャンプに出かけた。キャンプ場からの帰宅がてら、昔祖父が働いていた観光センターの駐車場に車を止めて、山頂からの眺めをしばらく楽しむことにした。僕が幼少期過ごしたこの山は、大観音に続く参道沿いに土産屋が連なっている。当時はまだ観光客に溢れていたが、コロナ禍の平日というのもあろうか、道行く者は誰もいない。その時分は近頃の寒波を忘れさせるほど暖かくなっていて、鳥の囀りのみこだます丘陵地の山頂駐車場では時間は東京の何倍もゆっくりと進んでいるようだった。騒がしい友人たちも、何か呟くことすらやめた。

 

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土産屋を歩く。店先の老人達が土産物の営業をしてくる。幼少期によく見た顔の老人はまだそこにいた。少年は20年で青年となり、見分けがつかぬほど姿を変えるが、老人は20年経っても老人のままであると僕は思った。彼女達の時の流れはその容姿の普遍さがそのまま表していると思った。

 

今は解体されてしまった、祖父の家も兼ねた土産屋の跡地のそばを歩いていると、歳の割に綺麗な老人が樫で作られた木刀が如何に丈夫かを説き、僕たちに進めてきた。木刀がいらなかった、というよりもこんなにも穏やかな斜陽の土産屋で、精一杯営業をする老人が居た堪れなくなって、僕は話を遮って言った。

 

「僕、隣の店の孫なんです。一番目の息子の子供。」

 

彼女の目が、客ではなく孫を眺めるように変わる瞬間を僕は捉えた。

 

「Aちゃんの息子さんかい。全然わからなかった。Aちゃんの3兄弟は小さい頃よくうちに遊びに来てくれたのよ。私レイコっていうんだけど、レイコちゃん遊ぼうって、よく言ってたのよ。」

 

レイコさんの綺麗に結んだ髪はやや茶色がかっていて、伸びた背筋と白い肌は、彼女が父の幼少期を知るほどの年齢であることを疑わせた。他の店の老人はよく覚えていたが、彼女の顔だけは、思い出せなかった。

 

淀んだ小川は時に、大海の小魚にとって極めて美しい存在となる。

 

28歳の誕生日の6日前の火曜日、ほんの30分のこと。