ガワラジオ

個人的な出来事の整理用。

キュビズム

幸せについて考えるとき、Tはいつも美しさのことしか考えていなかったのだった。

 

終電の地下鉄は人も疎らである。錦糸町までは20分ほどかかるだろうか。Tは座席の足元に放り出していたナイロン製のバックパックの巾着状のサイドポケットから新書を取り出そうとした。新書の脇にはくたびれたネズミ色のくるぶしソックスが詰め込まれている。

 

Tの記憶の限りでは、彼は昨晩の同じ時間に彼の古い知合いの女と情熱的なキスをしていた。彼女の家でチャミスルをたっぷりと煽った挙句、酩酊状態の中お互いにひとときの愛を求めたのであった。

 

「それで?その女と付き合うの?」

 

ひとしきり端末を話した所で、Kは僕に訊ねた。すぐに次のアクションを求めるあたりはさすが仕事人である。Tは釈然としない回答を続けながら、はっきりとした事を言うのを極力避けた。

 

「君はさては印象派ならきっとルノアールが好きだな?君が描く幸せはいつも美しくてぼんやりとしているんだ。マネが使う黒を、肥えた年増の女を、そしてそいつから生まれた口の聞けない赤ん坊の排泄物を、幸せのモチーフとする輩もいるんだぜ。」

 

「別にルノアールなんて好きじゃないよ。」

 

と、Tはまた釈然としないことだけ呟いて煙草に火をつける。彼はいつも兎に角取り止めもなく、至極無駄なことを考える癖があった。Tは、世間が是とする幸せは全くの幻想であって、それに気づいた自分だけが、新たな幸せの形を提示できる存在なのだと思うことがあった。然しTはそんな自分自身の考えを真実と感じてはいたが、同時に傲慢だとも思っていたから、長い友人のKにも言葉に出して伝えることはしなかった。

 

ピカソも最初は写実的な絵を描いてたって言うじゃないか。人類の歴史が作った幸せの型にはまれば圧倒的に幸せに近ずく確率があがるだろ。グダグダ悩んでないで、昨日ヤった女でいいからさっさと彼女でも作ればいいんだよ。」

 

Kは有り余る程現実主義者であった。その型にはまることが苦手だから、だから選ばれし者のふりをして、新たな幸せについて語る権利を得ようとしていること。それが崩れてしまったら、自分はただただ弱者となってしまうこと、Tは兎に角それを恐れていたのであった。

 

虚構の美を、描くことの美しさを、Tはまだ、知ることはできないのであった。