ガワラジオ

個人的な出来事の整理用。

仕事とプライベート

同じ部署内での若手の集まりで、年は1つ下だが年次的には1つ上になる先輩Yが「話のタネに」という事でこんな問いかけをしていた。

 

「仕事はプライベートの為にあると思うか。否プライベートが仕事の為にあるのか。」

 

同様の質問を彼の同期の飲みの席でした際に、面白い具合に真っ二つに分かれたのだと言う。

 

面白味が無くなるので、「どちらでもないは無し。」との要望から、僕は前者、仕事がプライベートの為にあると答えた。その場はやや偏っていて1人を除きみな僕と同じ回答であった。

 

どちらも人生の一部であるから、二元論的にまとめるのはナンセンスであると言う僕の主張は問いの趣旨から求められていない答えであり、口に出すような真似はできるはずもなかった。

 

しかし仕事の為にプライベートがあるなんて贅沢な回答である。稼ぐ伝手が無くやむなく体をうる同郷の風俗嬢や、片親で3人の子供を養うべく昼夜働き続けた地元の友人の母親からは決して出てこない発想であろう。彼らはあくまで生きる為に働くのであり、マズローによれば下層の安全欲求や生理的欲求を満たす目的にのみ仕事は存在するのであって、決して仕事の為に生きているのでは無いはずである。

 

旧態依然とした僕の会社でアンケートをとれば、「仕事為にプライベートがある。」が大半を占めるだろう。(と、考えていたが多くの働かぬ大先輩方を持つ我が社では逆の回答が多いのかもしれない。) これは裕福な家庭に生まれた学生が入社する傾向を暗に示しているのだろうか。仕事の為にプライベートがあると考える彼らは、仕事を最も円滑に進める人物像のイデアを形成し、そのイデアに近づく為の方法論として、プライベートの過ごし方をも他社に強制するのである。勤勉さは驚愕に値するが、功罪はさて置きもはや時代には適さない思考であろう。

 

今の僕にとっては、少なくとも就職活動以降の自分にとっては、仕事とは人生を謳歌する為の一手段であり、必ずしも目的ではない。その意味ではプライベートの為に仕事があるという選択肢が「より当てはまる」と考えるが、どちらとも同じく人生の一部であり、どちらの為にどちらが存在するわけではないというのは、仏教的な中道思想的であろうか。

取引先との付き合いが仕事の重要な要素であるこの仕事は、あまりにも人と接し過ぎる。中華圏の正月で仕事もあまりない予定だったので、国内の人気のない旅館で1人を満喫することにした。

 

旅と言えば、海外でその日に見つけた安宿を転々とするのが基本であった僕は、老舗旅館でゆっくりとした時を過ごすなんて初めての体験である。少し仕事が残っていた為到着が遅れ、いつ到着するのかと再三電話がきた時には、これが外国人の嫌う行き過ぎたおもてなしかとぼやいたものの、着いて見れば雪に囲まれた静かな良い宿である。

 

到着も遅かったので、1951年に完成したとの歴史ある大浴場を1人で堪能することができた。蝋が何重にも塗り重ねられたであろう木製の床板や、薄茶色になった千社札には愛着に近い感情を覚えた。雪が降りしきる独特の静けさが25時を回った着替え場をつつみ、自分の浴衣を脱ぐ音だけが古い映画館の音声のように反響するのであった。

 

外気温が低く、浴場は湯気が立ち込めている。光沢のあるタイルや内壁からは長い間丁寧に手入れをされたことが伺える。サウナらしき空間には古いネオン街の看板のようなゴシック体で蒸風呂・温泉と書かれている。無論僕はこのようなゴシック体のネオン看板が立ち並ぶ時代には生きていない。当時の魅力にインスパイアされた現代的な赤提灯系酒場で見るのみである。当時青春時代を過ごした人々は、僕とは違った感情でこのゴシック体を見つめるのであろうか。

 

細かな雪がポロポロと落ちる中、1人の旅行客には些か広過ぎる露天風呂で、僕は時を持て余していた。共働きの両親の家で、尚且つ山奥に住んでいたので、1人の時間はいくらあっても問題にはならなかったはずだったが、さて、僕は贅沢にも時間を持て余しているのである。思えばこの数年間僕は常に誰かと共に過ごしている。

 

 

会社の同期からこう言われた事があった。「君は誰とでもうまくやれるよね。腹が立つ人はいないのか?」かく言うその同期も、自己主張が激しく、古典的な我々の会社ではしばしば敵を生んでいた。僕は少し考えて、「そもそもあまり人に期待していないのかもしれない。」とだけ答えた。同期は続ける。「君は人が好きか、若しくは人に興味が無いのか?」僕は「人は多分好きなんじゃ無いかな。」とだけ自信なさげに答えた。

 

 

回想するうちに、ふと磁石のイメージが湧いた。磁石にS極とN極があるとすれば、僕は極めて弱い磁場を持つ第3極なのではないだろうか。N極とS極が北と南から命名されているならば、その間にあるEquator、E極とでも言おうか。SとNは接着する。SとSは近づけることすら出来ない。一方で僕はSにもNにも近づく事ができる。S極から見ればどうして他のS極に近づける事ができるのかわからない。しかし重要な事は、極めて、学生がやっつけで作り上げた観測機などでは到底観測できないくらい微弱ではあるが、E極は独自の磁場を持っているのである。その微弱な磁場のせいで、S極にもN極にも極限まで近づく事ができるが、どちらの極に対しても、これ以上近づけない距離が明らかに存在するのである。

 

と、とりとめもない思想にふけった所で、体が少しのぼせてきたことと、自分が誰ともうまくやれるようで、誰とも心を通わせられない証明をしているような気がして、風呂から出ることにした。

 

風呂上がり。見晴らしの良い縁側で煙草を吸いながら携帯のメッセージを確認する。1人になるべくここにいるわけだが、1人になりたくない自分がいるのだろうか。孤独を愛し、それでいて他人を愛する相反する感情は、人里離れた雪山でも携帯電話を手放させさせない。僕は今、孤独なのだろうか。

 

起業の世代

下書きを書いておいて、結局いつまでも書き上がらないのはニワカブロガーの特徴であろう。

3ヶ月以上前の下書きは以下のようなものである。結局何を思って殴り書いてみたのか定かではない。

 

 

<下書き>

9月二回目の三連休最終日である。11時過ぎに起き、ゆっくりとした時間を過ごして久しぶりに服を買いに隅田川を渡って来たのだったが、スーツの注文に存外に待たされて気付けばもう17時。本日もまた、あまり生産性の無い休日を過ごそうとしている。

 

6時頃起き、朝日の下心地よくまだ冷たい風を感じながらランニング。シャワーを浴びて朝食を作り、お気に入りの音楽を聴きながら食べる。8時からは読書。お腹が空いてきた12時頃外出し、近所にある人の少ないお気に入りのハンバーガーショップで昼食。そこから彼女とお気に入りの服屋を巡り…

 

そんな生活がしたい人生であった。果たして、もう僕にはこんな理想的な生活は無理なのか。夜行性の遺伝子が刻まれてしまったのか。母親よ、愛してやまない愛おしき人よ、あと一つだけ、贅沢な願いが許されるのなら、僕は朝方のDNAが欲しかったのだよ。

 

こんなにも僕が僕自身の生活環境の変革を切望するのに理由が無いわけではない。三連休中日、つまり昨日のことであった。

 

久しぶりに友人Oから連絡があり、上野駅周辺で飲もうという事になった。友人Oとは就職活動中に仲良くなり、共に同じ業界に就職した"戦友"であった。但し、僕は当時既に青春期を終え何かを一途に信じる事が出来なくなっていたものだから、大手総合商社の中でも業界トップのM社に行くことが人生の最大目標とすら捉えていた(少なくとも、僕にはそう見えた。)彼とは"戦友"としてアンバランスさがあったことは追記すべき点である。

 

上野駅を出て南。立飲み屋や赤提灯系飲み屋が並ぶ通りに、僕の行きつけの立飲み屋がある。贔屓の美容師に教えてもらってから、何度か足を運んでいる店である。支払いは前払制。威勢の良い店員が注文を素早く計算し、テーブル上の数千円のプールからとっていく。店員の愛想も悪く、汚い店内。然し、ありたけの小銭を酒に変える感じ。自分が、太宰の葉蔵や、ラスコーリニコフのような無頼漢になり得たような気がして、神経質な僕は些か満足感を覚えるのである。

<下書き 終わり>

 

何が書きたかったのであろうか。今では思い出す術を持たない。唯一の事実は、この友人Oとはもうこれ以来連絡を取っていないことである。

 

Oはその日鼻息を荒くして僕に報告をしてきた。彼は最大手商社の中で最も花形の部署から、自らの手で新規ビジネスの提案を通し、2年目という若手にしてそのビジネスのリーダーに任命されたらしい。Oの鼻息は極めて荒く、「これからは新しいビジネスで年功序列がひっくり返る時代だ。君もさっさとうだつの上がらない部署からでて新しい時代の幕開けに備えたらどうだね。」といった具合にまくし立ててきたのであった。

 

「起業しようぜ。」僕らの世代ではもう聞き飽きた文句である。そして古き会社文化に精神を削りながら闇雲に一流企業に居座るエリート主義者を嘲り笑い(嘲り笑うものもまた、古い体質の企業に居座っているのだが)、会社を辞め事業を立ち上げた同期にこの上ない賛辞を送るのであった。

 

ひと通り話を合わせつつも、闇雲にブログに書き綴ろうとした僕の決して正方向ではない鬱屈とした感情は、僕にはできない一歩を踏み出した友人に向けた嫉妬からくるのであろうか。それとも志無き事業への軽蔑か。かの下書きをどのように締めくくろうとしていたのか僕は思い出せない。しかし今もなお、Oとは連絡を取っていないのであった。

 

ボヘミアン・ラプソディ

いつ以来だろうか。久しぶりに映画館で映画を見た。数年ぶりに、しかも初めて一人で映画館に足を運んでみたが、映画館独特の緊張感と高揚感は親に連れられて見に行った時とも、当時の彼女を連れて行った時とも変わらぬままであった。

 

先月の28日に遂に26歳になってしまってから、大人の"男とは"を意識した生活を送るようになっている。(四捨五入の定義によれば25歳から"ほぼ"30歳のハズだが、友人たちは「遂に"アラサー"だね」と祝福してくる。どうやら26という数字には数学の定義以上の意味があるらしい。)「大人の男」を「独立した個人」と解釈した26歳と1ヶ月の自分は、一人旅の計画を立て(遂に計画倒れに終わりそうであるが)、友人を待つ為にオーセンティックなバアでの一人酒を選択する等、脱皮に向けた準備を始めているのである。

 

劇中で描かれた伝説のライブ、「ライブエイド」が行われた1985年の僕の父親は、同じような気分だったのだろうか。

 

www.foxmovies-jp.com

 

大きな困惑を覚えた映画であったと思う。人種差別やLGBT問題等かなりセンシティブな要素を盛り込んだ作品でありながら、本作を見た友人の感想が「すごく良かった。」で統一されているのは、生き生きと描かれた登場人物のせいか、パワフルなQueenの曲たちのせいか。

 

人種や性別の差別に関しては、自分の中で未だ何一つ結論を出せていない。世の中で盛り上がりを見せているセクシャルマイノリティ開放への動きになんとなく懐疑的な立場をとっている点が、唯一この問題への僕なりの回答であろうか。過去に僕は、「自己肯定感の源泉」という切り口でこの問題を考えてみた事がある。

 

ホモ・サピエンスの種としての反映という生物的な意義を超えて、人間として、人間社会に属する一個人として生きる意味を見出す為には、「自己肯定感」が不可欠な要素であると考える。同じ種族である他者から一歩離れて、まさに自分自身が生きる理由があるとすれば、自己のアイデンティティというものを確立し、他者と自己をうまく区別した上で、区別された自己を肯定する要素を見出すこと、それがここでいう自己肯定感に他ならない。区別された自己を肯定する要素を分類し、何らかの枠組みで捉えることは難しい。一方、他者と自己をどう区別するかに関しては、僕は以下の2種類ではないかと考える。

 

第一には、言語化できる範疇において「唯一無二」で有ることである。何かの競技や分野で第一人者に、もしくはそれに準ずる地位、名声や称号を得た時、明確に他者と自己は区別される。これは難易度が高く、性質から言って享受され得る人が限定されるものの、説得力のある明確な区別である。また例え何ひとつ大した成果を挙げられなかったとしても、誰かにとっての「唯一無二」となることで他者と自己には明確に境界線が引かれる。恋人に、他の大勢の他者から選ばれ、自分だけが特別な存在と見なされた瞬間は、何にも代えがたい幸福な瞬間であり、自己と他者が強力に区別される瞬間である。

 

そしてもう一つは、明確に他と区別された集団に属することである。集団が強力に他集団と区別される場合、その集団の中においては唯一無二であることはもはや必要がなくなる。唯一無二の集団に属するということがそのまま、集団に属していない他者との区別となりうるのである。ナショナリズムは典型的な例であるし、クラスのイケてるグループに属したくて堪らない中高生も集団のアイデンティティとでも呼べるものを示唆しているのではなかろうか。そしてこれは更に性に対する所属感にも通じていると考える。

 

男性であること。そして女性が好きであること。この事実は僕に男性という集団に属する自己肯定感を与えてくれるものであり、僕は更に"男"らしくなりたいと思っているし、"女子力"と呼ばれる技術を身に着けた女性にますます惹かれていくのである。

 

一方、世論はこのような大勢の人が持っている性への所属感をある種否定し、個人が自由な性別を持てるよう世の中になるよう動いているらしい。今回のボヘミアン・ラプソディもその大きなムーブメントの一部と捉えても良いかもしれない。「自由な性別を持てる権利」を保証することは、不当な差別や偏見を受けて苦しむセクシャル・マイノリティを救う為に必要なことかもしれない。一方で、不連続に2極化していた性を連続的な自由なものと解釈し直すことは、決してセクシャル・マイノリティに新たな自己肯定感与えることにはならないと考えている。何かに属することは、自己肯定感を見出すための重要な要素であり、性という境界がなくなった世界には、属する為の性がもはやなくなっているからである。出自を隠し、性的嗜好も隠した末に孤独感に苦悩していたフレディ・マーキュリーが印象的である。

 

単に境界線を無くすだけでは、自己肯定を生む箱である集団を失い、自己の行き場を無くすのみである。その反動で人々は、行き場を求めて更に強固な集団を作り上げ、そこへの帰属意識を強く持ってしまうかもしれない。SNSの普及により急速に発展したグローバリゼーションの反動が、近年のナショナリズムに影響しているのかもしれない。境界線は排除せず、その集団が誇りを持てるよう議論を進めるべきではないか。例えば、ゲイは普通だよ。という話ではなく、ゲイは普通じゃないけど素敵なことだよ。と言う風に。僕は男性に属しているから、ゲイに共感ができないけれども。

 

若しくは、集団に自己肯定の源泉を求めるのではなく、唯一無二になる必要があるのではないか。最高のエンターテイナーになることを人生の目標としたフレディ・マーキュリーのように。若しくは愛してくれる人の恋人や親友として、生き抜くことで。

 

久しぶりに見た映画でこれほど筆が進むとは思っても見なかった。僕は"大人"の"男"になるべく、"映画フリーク"の仲間入りでもしようかしら。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

女はなぜ突然怒り出すのか?

花言葉に愛を込めて。若しくは背筋がむず痒くなるくらい香ばしい手紙。プレゼントには沢山の選択肢があるものの、本のプレゼントは中々洒落の効いたものだと思う。

 

ジャケットを着ても汗をかかなくなった10月初旬、取引先とのプライベートの懇親会があった。対面の担当さんが最近結婚されたということで、そのお祝いも兼ねての会であったが、そこで僕の課の課長から担当さんと僕に本のプレゼントがあった。タイトルは"女はなぜ突然怒り出すのか?(姫野友美著、角川書店)

 

男女のトラブルの処方箋として、医学の立場からその原因となる男女の生物的な組織構造の差を説明するものである。この本を結婚したばかりの取引先の担当者と、課で最若手である僕にプレゼントした所は、家に帰らず奥さんとの関係が冷えついていると噂の課長らしいプレゼントである。

 

理系としては論理展開に幾分か飛躍があるなとは感じつつも、非常に納得感のある内容であった。小さなことで不安を感じやすく、将来のことより現在の些細な出来事に目を向けやすい女性。なるほど言われてみればと心当たりがある節が多い。

 

僕は、愚痴が多い職場に辟易している。(職場だけでなく、友人も母親も含め。)愚痴が多いこと=幸せでないと捉え、どうしたらより幸せな職場や生活環境になるのかを日々問うてきたのであるが、最近「彼ら(主に彼女ら)は愚痴を垂れることが何より幸せなのでは。」という仮説を立てていた所であった。

 

この本によれば、この仮説は一面的には正しいようである。男女の思考法の差を明確にする事に論点を集約していた同書だから、解決策より共感を求めるのが女性的な思考法と指摘されていたのだが、男性も女性もある程度は似た所があることを考慮すれば、会社でも私生活でも愚痴や誰かの悪口に終始し"生産性の無い"飲み会が日々東京中で繰り広げられている現状にも合点がいく。

 

さてこの生活の中で僕はどうしたら良いのか。同書の提案のように、「そうだね、大変だね。」と共感発言製造マシーンとなり、無駄な口論を避けていくのは自己の精神衛生上素晴らしい解決策でありそうだ。

 

しかし、湧き上がる一抹の反抗心。人間の精神的な面がさまざまな角度から分析されていく中で、今後世界ではどのようにして人間らしさが保証されていくのだろうか。人間の幸福の為、理性を追求したコンピュータが台頭していく中で、人間自身がますます理性的に画一的になっていくのではと憂いを持っている。些細なフラストレーションからの無駄な争いや、はたまた繰り返してはならない大戦争を解決する為に、「理性的な社会」の実現に人生を賭けた先人たちには敬意を表さなければならない。一方で、理性を追求した結果、人間とは何か、ひいてはなぜ人は生きているのかという人類共通の大テーマの解答から、少しずつ遠のいていく気がしている。

 

誰かを愛することは誰かを愛さないと決めることである。誰かの愚痴や悪口、マクロ的には他国への嫌悪は決して"幸福"をもたらすものでないことは自明であるが、"人間的らしさ"をもたらす材料になり得るのではないかと感じる。そもそも人間らしさと幸福はその中に自己矛盾を孕んでいるのだろうか。

 

 

 

 

僕は生粋の読書家だった父親から、文字が読めるようになってから20歳まで、毎年誕生日に本を贈られていた。

 

彼が僕の人生を考えた上での渾身のプレゼントだったが、当時読書会嫌いだった僕にはあまり効果は無かったようである。

 

皮肉にも父から本を贈られ無くなってから、本を多く買うようになった。父からの本のプレゼントが届かなくなってから5年が経った今、本というパッケージの中に込められた思想を贈るという作業には計り知れない人間らしさと尊さがあると思っている。

 

さて、僕もいつできるかわからない将来の伴侶か、若しくは年々思想に隔たりが大きくなる母親に、本でも贈ろうかしら。

家出のすすめ

9月中旬、東京では受ける風に大陸の冷気を感じる。まだ夏を諦めきれず、忙しい日々を送る同部署の同期4人で沖縄旅行に向かった。

 

彼らはそれぞれ大学も寮も違うものの、この春箱根旅行をして以降幾度か一緒に休日を過ごしている。

 

旅行先での議論のテーマは終始「如何に我々が置かれている環境が"イケてない"か」と「如何にして"イケてる"生活をするか」というものであった。

 

明るく振舞おうとすることを辞め、極力自分の心地の良い温度感でーそんなものが実在するかは置いておいてー生活していこうと決意した僕には新鮮な議題であったが、最近仲良くなり始めたばかりの20代半ばの青年が、互いのことを"イケてない"と認め合い、真剣に打開策を探すのは興味深い。

 

さて、旅行のお供は寺山修司「家出のすすめ」であった。先日読んだ「書を捨てよ、街に出よう」と同様、村社会や概念的であり物理的な「家」から脱し、自己を確立させる重要性を唱えた本である。

 

この奇妙な小説を読んだ僕の1番の興味は、「果たして自分は、家出をできたのか。」という点である。

 

自分の知らない世界を幸福と捉えるものと、自分がよく知る世界が幸福と定義する二者があるとすれば、僕の母親は後者であった。

 

そんな母親のある"家"から、最大の幸福とはまだ知らぬ世界を知ることであると定義付けた僕は新しい世界へと飛び出したはずであった。

 

小川は安全だが淀む。僕は如何に危険があろうと淀みの無い大河を渡りたい。語気を強めて母親にそう語った僕にとって、18で京都に出て24で上京した事実は僕が"家出"をできたことの何よりの証明であった。

 

然し乍ら、家出を完了した者は自らの手で新たな"家"を作るはずであるが、僕にはまだ"家"が無い。自己のナショナリズムと言ったものが無いのである。

 

SNSやLINEの登場で僕たちは遠くに旅立ってしまった古き友人ともいつでも会えるようになった。捨てたはずの家や故郷は、いつでも自分の掌で存在するのである。その結果、故郷へのナショナリズムも微量に、しかし無視できぬ程存在し、故郷のアンチテーゼとして自己肯定の柱のなるはずだった"家出のナショナリズム"も薄まってしまったようである。

 

 

捨てられぬ故郷。捨てられぬ新しい故郷。増え続けるアイデンティティの交錯。僕の新しい"家"は何処に誰と作るのであろうか。

 

僕は想定していたよりも大きな大河に出てきてしまったようだ。

 

故郷は遠きにありて想ふもの

そしてかなしく歌ふもの

かへるところにあるまじや

(室生犀星)

 

漕げども漕げども流される大河。故郷の小川もすぐ側に。帰るべきだろうか。否。漕ぎ続ける他に方法は無い。

 

 

予定も無いのにレンタカーだけ借りた日

ー7月22日 午後 予定は無い。

 

流行りの新書を紹介しあい、本質という言葉を闇雲に並べるだけの、至って面白味の無い読書会に参加した後、主催者からの熱烈なセミナーの誘いーーネットワークビジネスの類だったのだろうかーーを断り、かくして日曜日の午後の予定を白紙に戻したのだった。

 

そして、レンタカーを借りてみる。今月頭ボーナスが出たこともそれを後押しした。行先のアイデアは無く、誘う女もいない。ー幸い1時半後に会社の同期(男)が助手席に座ってくれた。なんと素敵なことだろうか!ー

 

僕は天性のミニマリストであった。ポイントカードは絶対に持たない。料理は時間と金の無駄であるというのがここ数年の主張であった。

 

しかし、ちょうど会社の寮を出て、錦糸町というガチャガチャとした街に越してきてからであろうか。ーその引越し自体が相当な無駄であったがー 無駄なものを集め、無駄なことを甘んじて行うようになったのである。

 

ミニマリズム。美しい響きである。よく観察してみれば、世の中の殆どのものは意味のない無駄な物である。恐らく、正しい。しかし、恐怖である。

 

ミニマリズムの先に、自分の尊い人生すら「仕分け」せざるを得なくなるのではないか。という非常に強い恐怖は、僕を、無駄な、取るに足らない、他人が価値を見出せない物に執着せしめるのであった。

 

「何かを愛するという事は、何かを愛さない事と同義である。」というのは僕の主張であるが、ミニマリズムによって多くの、取るに足らない、些細なものに振り分けてしまっていた愛を、本当に大事なものに振り直せるのかもしれないのは見過ごせない観点であろう。

 

とはいえ、恋人や友人そして彼らとの素晴らしい人生。ミニマリズムの終着点にそれが残る保証が無ければ、如何に生きようか。