ガワラジオ

個人的な出来事の整理用。

ボヘミアン・ラプソディ

いつ以来だろうか。久しぶりに映画館で映画を見た。数年ぶりに、しかも初めて一人で映画館に足を運んでみたが、映画館独特の緊張感と高揚感は親に連れられて見に行った時とも、当時の彼女を連れて行った時とも変わらぬままであった。

 

先月の28日に遂に26歳になってしまってから、大人の"男とは"を意識した生活を送るようになっている。(四捨五入の定義によれば25歳から"ほぼ"30歳のハズだが、友人たちは「遂に"アラサー"だね」と祝福してくる。どうやら26という数字には数学の定義以上の意味があるらしい。)「大人の男」を「独立した個人」と解釈した26歳と1ヶ月の自分は、一人旅の計画を立て(遂に計画倒れに終わりそうであるが)、友人を待つ為にオーセンティックなバアでの一人酒を選択する等、脱皮に向けた準備を始めているのである。

 

劇中で描かれた伝説のライブ、「ライブエイド」が行われた1985年の僕の父親は、同じような気分だったのだろうか。

 

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大きな困惑を覚えた映画であったと思う。人種差別やLGBT問題等かなりセンシティブな要素を盛り込んだ作品でありながら、本作を見た友人の感想が「すごく良かった。」で統一されているのは、生き生きと描かれた登場人物のせいか、パワフルなQueenの曲たちのせいか。

 

人種や性別の差別に関しては、自分の中で未だ何一つ結論を出せていない。世の中で盛り上がりを見せているセクシャルマイノリティ開放への動きになんとなく懐疑的な立場をとっている点が、唯一この問題への僕なりの回答であろうか。過去に僕は、「自己肯定感の源泉」という切り口でこの問題を考えてみた事がある。

 

ホモ・サピエンスの種としての反映という生物的な意義を超えて、人間として、人間社会に属する一個人として生きる意味を見出す為には、「自己肯定感」が不可欠な要素であると考える。同じ種族である他者から一歩離れて、まさに自分自身が生きる理由があるとすれば、自己のアイデンティティというものを確立し、他者と自己をうまく区別した上で、区別された自己を肯定する要素を見出すこと、それがここでいう自己肯定感に他ならない。区別された自己を肯定する要素を分類し、何らかの枠組みで捉えることは難しい。一方、他者と自己をどう区別するかに関しては、僕は以下の2種類ではないかと考える。

 

第一には、言語化できる範疇において「唯一無二」で有ることである。何かの競技や分野で第一人者に、もしくはそれに準ずる地位、名声や称号を得た時、明確に他者と自己は区別される。これは難易度が高く、性質から言って享受され得る人が限定されるものの、説得力のある明確な区別である。また例え何ひとつ大した成果を挙げられなかったとしても、誰かにとっての「唯一無二」となることで他者と自己には明確に境界線が引かれる。恋人に、他の大勢の他者から選ばれ、自分だけが特別な存在と見なされた瞬間は、何にも代えがたい幸福な瞬間であり、自己と他者が強力に区別される瞬間である。

 

そしてもう一つは、明確に他と区別された集団に属することである。集団が強力に他集団と区別される場合、その集団の中においては唯一無二であることはもはや必要がなくなる。唯一無二の集団に属するということがそのまま、集団に属していない他者との区別となりうるのである。ナショナリズムは典型的な例であるし、クラスのイケてるグループに属したくて堪らない中高生も集団のアイデンティティとでも呼べるものを示唆しているのではなかろうか。そしてこれは更に性に対する所属感にも通じていると考える。

 

男性であること。そして女性が好きであること。この事実は僕に男性という集団に属する自己肯定感を与えてくれるものであり、僕は更に"男"らしくなりたいと思っているし、"女子力"と呼ばれる技術を身に着けた女性にますます惹かれていくのである。

 

一方、世論はこのような大勢の人が持っている性への所属感をある種否定し、個人が自由な性別を持てるよう世の中になるよう動いているらしい。今回のボヘミアン・ラプソディもその大きなムーブメントの一部と捉えても良いかもしれない。「自由な性別を持てる権利」を保証することは、不当な差別や偏見を受けて苦しむセクシャル・マイノリティを救う為に必要なことかもしれない。一方で、不連続に2極化していた性を連続的な自由なものと解釈し直すことは、決してセクシャル・マイノリティに新たな自己肯定感与えることにはならないと考えている。何かに属することは、自己肯定感を見出すための重要な要素であり、性という境界がなくなった世界には、属する為の性がもはやなくなっているからである。出自を隠し、性的嗜好も隠した末に孤独感に苦悩していたフレディ・マーキュリーが印象的である。

 

単に境界線を無くすだけでは、自己肯定を生む箱である集団を失い、自己の行き場を無くすのみである。その反動で人々は、行き場を求めて更に強固な集団を作り上げ、そこへの帰属意識を強く持ってしまうかもしれない。SNSの普及により急速に発展したグローバリゼーションの反動が、近年のナショナリズムに影響しているのかもしれない。境界線は排除せず、その集団が誇りを持てるよう議論を進めるべきではないか。例えば、ゲイは普通だよ。という話ではなく、ゲイは普通じゃないけど素敵なことだよ。と言う風に。僕は男性に属しているから、ゲイに共感ができないけれども。

 

若しくは、集団に自己肯定の源泉を求めるのではなく、唯一無二になる必要があるのではないか。最高のエンターテイナーになることを人生の目標としたフレディ・マーキュリーのように。若しくは愛してくれる人の恋人や親友として、生き抜くことで。

 

久しぶりに見た映画でこれほど筆が進むとは思っても見なかった。僕は"大人"の"男"になるべく、"映画フリーク"の仲間入りでもしようかしら。