家出のすすめ
9月中旬、東京では受ける風に大陸の冷気を感じる。まだ夏を諦めきれず、忙しい日々を送る同部署の同期4人で沖縄旅行に向かった。
彼らはそれぞれ大学も寮も違うものの、この春箱根旅行をして以降幾度か一緒に休日を過ごしている。
旅行先での議論のテーマは終始「如何に我々が置かれている環境が"イケてない"か」と「如何にして"イケてる"生活をするか」というものであった。
明るく振舞おうとすることを辞め、極力自分の心地の良い温度感でーそんなものが実在するかは置いておいてー生活していこうと決意した僕には新鮮な議題であったが、最近仲良くなり始めたばかりの20代半ばの青年が、互いのことを"イケてない"と認め合い、真剣に打開策を探すのは興味深い。
さて、旅行のお供は寺山修司「家出のすすめ」であった。先日読んだ「書を捨てよ、街に出よう」と同様、村社会や概念的であり物理的な「家」から脱し、自己を確立させる重要性を唱えた本である。
この奇妙な小説を読んだ僕の1番の興味は、「果たして自分は、家出をできたのか。」という点である。
自分の知らない世界を幸福と捉えるものと、自分がよく知る世界が幸福と定義する二者があるとすれば、僕の母親は後者であった。
そんな母親のある"家"から、最大の幸福とはまだ知らぬ世界を知ることであると定義付けた僕は新しい世界へと飛び出したはずであった。
小川は安全だが淀む。僕は如何に危険があろうと淀みの無い大河を渡りたい。語気を強めて母親にそう語った僕にとって、18で京都に出て24で上京した事実は僕が"家出"をできたことの何よりの証明であった。
然し乍ら、家出を完了した者は自らの手で新たな"家"を作るはずであるが、僕にはまだ"家"が無い。自己のナショナリズムと言ったものが無いのである。
SNSやLINEの登場で僕たちは遠くに旅立ってしまった古き友人ともいつでも会えるようになった。捨てたはずの家や故郷は、いつでも自分の掌で存在するのである。その結果、故郷へのナショナリズムも微量に、しかし無視できぬ程存在し、故郷のアンチテーゼとして自己肯定の柱のなるはずだった"家出のナショナリズム"も薄まってしまったようである。
捨てられぬ故郷。捨てられぬ新しい故郷。増え続けるアイデンティティの交錯。僕の新しい"家"は何処に誰と作るのであろうか。
僕は想定していたよりも大きな大河に出てきてしまったようだ。
故郷は遠きにありて想ふもの
そしてかなしく歌ふもの
かへるところにあるまじや
(室生犀星)
漕げども漕げども流される大河。故郷の小川もすぐ側に。帰るべきだろうか。否。漕ぎ続ける他に方法は無い。