ガワラジオ

個人的な出来事の整理用。

多動的な趣味の先に成功はあるか

将棋を打つことがもっぱら最近の暇つぶしとなって久しい。約半年くらいはハマっているだろうか。登録されている囲い方や戦法を繰り出すと、エフェクトがコレクションできる面白アプリに登録してからすっかり将棋の魅力に気づき、プロの将棋戦を晩酌しながら鑑賞するようになった。今では大抵の有名棋士の名前と顔は覚えてしまった。花金合コンの開始時間を待ちながらスタバでNHK将棋の棋譜を眺める有様には、自分でもさすがに呆れている。

 

しかし実を言うと、将棋好きは今始まったことではない。「いや、知らんわ」というツッコミは甘んじて受けるが、小学校時代も父親とよく将棋を打っており、大会の出場も検討したほどであった。当時は土日のサッカーの練習とかぶるという理由で参加を見送ったのだった。大学時代も当時の指の感触が残っていたのか、将棋アプリをダウンロードしてはCPUと戦いまくり、勉強の妨げになる為自重。アプリをデリートするというサイクルを数ヶ月おきに繰り返したのであった。

 

さてこれだけ将棋にハマっている私だが、肝心の棋力はめっきり上達しない。一応超名門大に現役合格

するだけの頭脳と戦略的学習力は持ち合わせているはずだが、いつまで経っても強さが5段回あるアプリであれば3強までは勝ち、4強には勝てない。大して将棋をやっていないから、といえばそれまでなのだが、小学生時代からこれまで、ちょっとした試合時間を合計すれば相当な時間をかけていたはずである。これでは向上心のかけらもないと言われても仕方がない。いくつか本を読破してゲームで試して、しっかり感想戦をして、また勉強して、たまに将棋会館に出向いて指導対局を受けて…という圧倒的PDCAサイクルで棋力が向上しそうなことは私くらい数多のテストを乗り越えてきた人間ならすぐにわかる。が、実際やってこなかった訳であるし、これからもやるつもりがない。弱いCPUを倒してひたすらDDDDサイクルを回している。

 

つまり、棋力向上へのモチベーションがゼロなのである。じゃあ何故将棋にここまで時間を費やしているのか、というか何なら向上へのモチベーションがあるのか。

 

毎日のように勉強したいと思ってはいる英語も同様である。仕事上使わざるを得ないので、ある程度の向上は見られたが、1ヶ月留学した学生程度の語学力であろうと思う。たった1ヶ月英語に触れるだけで飛躍的に向上しそうなものを、何故出来ないのか。

 

好きだった仏像も、サッカーも、美術品も、ラップも、漫才も、ファッションも、研究も、もしかしたら仕事も?全て平均点以上に詳しい。ただし全く興味が無い門外漢もサンプル数に含めて、の話。専門家が見ても詳しい程の知識や実力をつける程の要領もモチベーションも私には無い。何だろうこの生きにくさは。

 

私には線引き癖とでも言うようなものがこびりついているのだろうか。新人時代にやや攻めた眼鏡をかけて出社した際に窓際おじさんに言われた言葉を思い出す。

「その眼鏡は服屋の店員がかければ似合う類のものだねぇ。彼らはファッションのために人生をかけてるけど、僕らは違うから。」単に他愛もないイジりコメントなのだが、私は違和感を感じたのだった。服屋の店員も生まれた時から人生をかけていたわけでは無い。素人の時代を経て、ファッションに傾倒した人びとである。はて、その人はいつどのように「ファッションの人」になったのか。服屋の店員にならないまでも、人はいつから「お洒落な人」になるのか。自分はお洒落では無いから、と線引きした時点で、あり得た洒落男への未来は閉ざされるのである。

 

私は私である。何をしても良い。と捉えれば素敵な自負である。そう思いきれれば。棋士では無いけど将棋が強い。何の意味も無いけど。それが私だから。商社マンだけど研究が好きだから論文を読み漁っている。それが私だから。

 

しかし、私は私である、という私の自負には、私は私であって〇〇では無いという否定の文脈が非常に強く現れているような気がする。私は常に心のどこかに思い続けている。私はアーティストではないし、サッカー選手にはならないし、棋士ではないし、研究者でもないし、行き着くところ、商社マンでもない。

 

はて、私は誰なのだろうか。勿論私自身であり、何らかの肩書があろうとなかろうと、失われないアイデンティティである。しかし、否定的な文脈を積み上げ、線引きした先に私自身の素敵な人生は広がっているのだろうか。何も成し遂げず、錦糸町の路地でのたれ死んでも私の人生である。そう思いきれれば、私は私のまま死ぬことができる。そう思えないから、誰かの文脈の組合せで私を作っていくしか無い。十分分かってはいる。分かってはいるのだけれど。